前にも書いた通り、西湖の話やパフォーマンスの順序は全く覚えていないので、以下、思いついたままに書いて行くことにする。
西湖の忍者としての修行の話は、常識的には素直に受け入れ難い話が多かった。
例えば、透視力、西湖はそれを千里眼といっていたが、子供の頃からその能力があったという。
また、跳躍力の修行は、麻の種を播いてその上を毎日飛び越える。麻は生長が早いので日毎に高くなって行くが、それと共に跳躍力がアップしないと、麻の生長に追い付けない。
忍者の跳躍力は九尺(約二米七十糎)以上ないといけないというが、それを聞いて、走り高跳びにの世界記録はどの位だったか、と考えてしまった。しかし、忍者の場合は競技ではないので、麻の葉に触れることがあっても、それを薙ぎ倒すことなく跳び越せればいいのかもしれない。
手を指先から砂の中に突き入れる修行については、以前誰だか忘れたが、明治の故老の江戸回想録の中で、武士だった祖父の妻、つまり祖母が「エイッ」という掛け声と共に、二本の指先で傍の板塀に穴をあけたのを見た、と書いてあったのを思い出した。昔の武家の女性の護身術だったと思われる。
西湖の場合は、その鍛錬法は次のようになっている。
砂に向かって力一杯、手を指先から突き込んでも、最初は指が痛いだけで手が砂の中まではなかなか入らないが、修練を積むことによって、次第に深く入るようになる。手首まで入るようになったら、砂を砂利に変える。砂利に対しても手首まで入るようになったら、今度は地面に直接、手を突き入れる練習を手首まで入るようになるまで繰り返す。
それが出来るようになったら、敵の胸に手を突き入れて肋骨を引き抜くことも容易だという。
隠密は調査の命を受けると、目的地に密かに潜入するために様々な職業の人物に変装する。
姿形だけを変えても、その職業の人間がやっていることが出来なければ、すぐ化けの皮が剥れてしまう。坊主ならば経が読めるし、放下師ならば踊りや手妻(手品)が出来る。絵描きであれば絵が上手く描けないと可笑しいし、虚無僧であれば尺八を吹く、といった具合に何にでもなれるようにあらゆることに挑戦修行したが、大体忍者は七種類の人物に変装できればよしといわれている。
目的地の城下に入る時は、その少し手前で左右の着物の袂に同じ数の豆を入れて置き、あまりきょろきょろすると怪しまれるので、歩きながら右に家数が五軒あれば、右の袂の豆を五粒食べ、左に家数が三軒あれば、左の袂の豆を三粒食べるといった風にしながら、城下を通り抜け、人気のない所で左右の袂に残った豆の数を数えれば、街道に面した城下の家並の数がわかる。
また、城の近くを通る時、これという目測可能な木を見つけたら、その手前で草鞋の紐を結び直すふりをして、その木の頂上と城の天守の頂上が一直線になるような位置から、上を見上げると、三角法から天守の高さを割り出すことが出来る。
西湖は話の途中で、いくつかのパフォーマンスをやってみせた。
一つは南京錠を二十個近く持ち出して、施錠してみせ、人の目の前ではずすところを見せることは防犯上、出来ないからといって、後ろ向きになって、アッという間にすべてをはずしてしまった。
また、手錠を出してきて、人に頼んでそれを自分の両手に掛けて貰い、それも後ろ向きになって数秒の内にはずしてしまった。
忍者は関節を思いのままにはずしたり、また入れたり出来るといっていたので、どうやらその関節技を使ったものと思われる。
頭が入れられる隙間があれば、どんな所にでも侵入出来ると豪語していた。
後先になったかもしれないが、一番彼のパフォーマンスで驚いたのは、その物真似というか、声帯模写だった。
忍び込んだ先で物音を立てて怪しまれてしまった場合、犬猫などの泣き声をして、そのせいにしてしまうのだが、そのために、犬猫鼠など動物の鳴き声も真似出来るようにしておく。
そういって、西湖は犬の鳴き声を真似てみせた。
江戸家猫八など声帯模写芸人がやってみせる犬の鳴き声といったら、一種類だけである。
ところが西湖は、黒犬、白犬、ブチ犬の小犬などと細かく区別して鳴いてみせた。
それが正しいのか、どうかを見極めることは実際にその種の犬を飼っている人しかわからないのだろうが、本当にそれらしく聞こえるのにびっくりした。
新聞紙を丸めて尺八がわりにして、尺八の音模写もやってみせたが、あたかも本当の尺八を吹いているようだった。
もの真似芸人で尺八の音真似をする芸人もいるが、それよりも西湖の音真似ははるかにリアルで、それは芸というよりもむしろ技能と呼ぶに相応しいものだった。
戦争中、西湖は、スパイ養成学校として有名な中野学校の教官をしていたこともあったが、中国で諜報活動をやった。
その中国では随分危い目にも遇った。
大勢の敵に囲まれてしまった時は、なまじその囲みを強行突破しようなどと思わずに、観念しておとなしくしているように見せかけて素直に縛についた方がよい。そして、連行される途中、隙をみて逃げるのである。
藤田西湖の講演会で覚えていることは、大体そんなところである。
その講演後、私はA会に一度も出席したことはなく、やがて、A会の月例会の通知も来なくなった。
藤田西湖に会ったのは、その時、一度だけであるが、確か、あれは東京オリンピックの年(昭和三十九年)だったと思う。
日本古武道大会とかいうテレビの中継で、藤田西湖の姿を見た。
もちろん、他の武道家も大勢出ていたのだが、西湖のことしか記憶にない。
稽古着、袴姿の西湖は素手で大坂城の石垣を登って行ったり、太い鉄の鎖に大きな鉄の分銅がいくつか付いているものを振り廻しては裸になった上半身の胸板に、ドカン、ドカンと叩きつけていた。
それが藤田西湖の姿を見た最後だった。
二、三年前に古本市で藤田西湖の『甲賀流忍者一代記』という本を見付けて購入したことを前章に書いたが、本棚に入れたままになっていた。
この稿を書くに当たり初めて目を通した。
甲賀流十四世の忍者、藤田西湖が講師というA会の月例会の案内状を目にした時、すぐに藤田東湖の名が思い浮かび、藤田西湖とは何というインチキ臭い名前だろうと思った。
しかし、実際に会って話を聞いてみると、真面目な武道家という印象が強かった。
西湖という号は自分でつけたというが、藤田東湖との比較で、随分印象的には損をしていたような気がする。
西湖の自著の「おくがき」に、大平陽介という人が「藤田西湖氏と私」と題して書いているが、それによると、明治三十二年浅草生まれの西湖は昭和四十一年一月四日に亡くなった。享年、六十八歳(数え歳)だったという。
2013年6月3日月曜日
藤田西湖の思い出話 Volume 1
第137話 『忍術の話(一)、藤田西湖』
昭和二十四、五年頃のことである。
A会の毎月の例会の通知が私の許にくるようになった。
A会は学校のOBの会だが、すべてのOBに通知を出している訳ではないので、誰かが私を会員に推薦したのか、紹介したに違いないのだが、未だにそれが誰なのか、わからないままになっている。
会場は今の霞ヶ関会館の所で、勿論、まだ現在のような立派なビルにはなっていない。その玄関を入ってすぐ左手の会議室のような部屋で、二、三十人は十分に収容出来るスペースだったと覚えている。
会の内容は、毎月講師が替わって、誰それの帰朝報告会といったものが多かった。
戦後間もない当時は、外国への渡航が自由に出来なかった時代で、政府の役人などになっているOBが公用でアメリカへ出張して帰ってきた土産話とでもいったもので、私は二、三度出席してみたものの、あまり興味がわかないので、そのまま捨て置くようになった。
A会には入会金とか、年会費などはなく、出席した時に、確か五百円支払ったと記憶している。
軽い昼食が出て、それをとりながら講師の話に耳を傾けるのだが、その五百円の会費から食事代と講師への寸志を捻出していたのだと思う。
そのA会から、藤田西湖という甲賀流十四世の忍者が講師という通知を貰って、久しぶりに出かけて行く気になった。
私が忍者が講師と聞いて興味をそそられたように、他の会員の方々も同様に好奇心をかき立てられたらしく、いつもは十数名しかならない出席者が一気に倍近くに膨れ上がり、主催者の幹事さん達は思いがけなく一挙に増えた人数分の食事の手当に大童で、大そうお気の毒に思ったことを思い出す。
藤田西湖の話の内容だが、さすがに六十年近くも昔のことで、話の順序や細かいことは忘れてしまったが、断片的ではあるがかなりのことが記憶に残っているのは、やはりその印象が余程強烈だったからだろう。
初めに、自分が甲賀流十四世の藤田西湖で、本名を勇治と云い、西湖は絵を習った時に付けた号で、忍術の稽古は甲賀流十三世の祖父新之助から受けたと話し始めた。
父親は警視庁の巡査で藤田森之助といったが、忍者ではなかった。
しかし、捕縄術の名人だったという。
西湖の家は代々、幕府の隠密の家だった。
徳川家康が織田信長の招きに応じて天正十年(1582)泉州堺に遊覧の途上、本能寺の変が起こった。
これを茶屋四郎次郎が早馬で家康の許に知らせてきた。
家康はそれを聞いて本能寺に向かおうとしたが、この兵乱で野武士が蜂起し、孤立無援の窮地に陥った。その時、本多忠勝が、ここは何はともあれ、少しでも早く三河へ帰るべき、と進言した。家康もその意見を入れ三河へ戻ることにしたが、その途中も決して安全とは云い難いので、服部半蔵、拓殖三之丞、穴山梅雪などの斡旋で伊賀、甲賀の忍者二百名を招いて警固を頼み、鹿伏兎峠(かぶととうげ)を越え、伊勢の白子浜から海路、三河に戻ることが出来た。
その縁故から、後の天正十八年(1590)家康は江戸に居城を構えるに及び、服部半蔵以下二百名の忍者を江戸に呼び、召抱えて隠密とした。四谷の伊賀町は伊賀者のいた所、神田の甲賀町は甲賀者のいた所、又、下輩の忍者は麻布の笄町(こうがいちょう)辺に橋を隔てて伊賀者と甲賀者を住まわせた。即ち、甲賀伊賀町というのが笄町になったという。
以上は、西湖が書いた『甲賀流忍者一代記』という自伝の冒頭の部分を要約した。
A会での講演でも西湖は家の由緒について語っていたが、何しろ古い話なので固有名詞等は全く記憶がなく、西湖の本を参考にせざるを得なかった。
西湖の本は、二、三年前に古本市で見つけて買っておいたもので、この稿を書くに当たって初めて目を通したが、思い出すことも多かった。
記憶が定かでない場合も多々あるので、以下、西湖の本と睨み合わせて書いて行くことにする。
さて、西湖が自伝に書いている冒頭の部分は、考証的にいって疑問点が多いので、一応はっきりさせておく。
西湖の家は甲賀流であるから、甲賀衆である。三田村鳶魚は、甲賀者、甲賀衆といった人達が隠密をつとめたことは知らない、といっている。
甲賀衆というのは同心で御留守居付の者だったと聞いている。隠密などという役をつとめることは決してない。甲賀組というと忍術の本場が江州の甲賀だから、そんなことを引っかけたのだろう、というのである。
甲賀者というのは、関ヶ原の戦で功があった山岡備前守景友に家康が討死した甲賀者の子孫、与力十人、同心百人と九千石の地を与え、その内四千石を以て士卒の給分に当てたのが今の甲賀組である、と『徳川実紀』にあるという。
又、神田の甲賀町について、駿河台に甲賀町という町があり、これは甲賀衆が住んでいたから付いた町名というが、甲賀衆が住んでいたというのは疑問である。甲賀町には火消屋敷と旗本衆の邸宅だけで、甲賀衆が火消屋敷につとめていたことはあるが、甲賀衆の組屋敷はなかった。組屋敷を拝領するのは、その組の者だけで、甲賀衆ならば同心である。
更に、本能寺の変の後、堺から伊賀、甲賀の忍者二百名に守護されて、家康は三河に無事戻ることが出来たとあるが、家康を警固したのは服部半蔵率いる伊賀者二百名で、甲賀者は入っていない。
服部半蔵には、姉川、三方ヶ原の合戦の時にも戦功があったというが、その後、江戸に招かれて三千石を与えられた。
半蔵が守った門が半蔵門ということはよく知られている。
こうしてみると、甲賀者が隠密をつとめていたという事実はなさそうで又、伊賀者についても鳶魚は、江戸に招かれた伊賀者は同心として、いろいろな役目についたが、間諜として働いたのは江戸の初期、といっている。『旧事諮問録』に、諸藩の支配地に姿を変えて入り込んだりする隠し目付は何ですか、という問に対して、御小人目付です、といっている。又、将軍の隠し目付の御庭番は、という問には、あれは目付の支配ではありません、と答えている。
御庭番というのは将軍直属で、八代将軍吉宗の創始という。
従って、隠密役と云えば、御小人目付か、御庭番のどちらか、ということになるが、西湖の書いたものからはわからない。
西湖は歴史家でも考証家でもないのだから、家の来歴や由緒など、云い伝えをかじっているだけで曖昧なのは仕方がないのかもしれないが、あまり話が違うので、ちょっと出端を挫かれた感がある。
しかし、A会での西湖のパフォーマンスはなかなか刺戟的で、ユニークなものだった
荘司 賢太郎
会の名稱は失念してしまったので、仮にA会として置く。昭和二十四、五年頃のことである。
A会の毎月の例会の通知が私の許にくるようになった。
A会は学校のOBの会だが、すべてのOBに通知を出している訳ではないので、誰かが私を会員に推薦したのか、紹介したに違いないのだが、未だにそれが誰なのか、わからないままになっている。
会場は今の霞ヶ関会館の所で、勿論、まだ現在のような立派なビルにはなっていない。その玄関を入ってすぐ左手の会議室のような部屋で、二、三十人は十分に収容出来るスペースだったと覚えている。
会の内容は、毎月講師が替わって、誰それの帰朝報告会といったものが多かった。
戦後間もない当時は、外国への渡航が自由に出来なかった時代で、政府の役人などになっているOBが公用でアメリカへ出張して帰ってきた土産話とでもいったもので、私は二、三度出席してみたものの、あまり興味がわかないので、そのまま捨て置くようになった。
A会には入会金とか、年会費などはなく、出席した時に、確か五百円支払ったと記憶している。
軽い昼食が出て、それをとりながら講師の話に耳を傾けるのだが、その五百円の会費から食事代と講師への寸志を捻出していたのだと思う。
そのA会から、藤田西湖という甲賀流十四世の忍者が講師という通知を貰って、久しぶりに出かけて行く気になった。
私が忍者が講師と聞いて興味をそそられたように、他の会員の方々も同様に好奇心をかき立てられたらしく、いつもは十数名しかならない出席者が一気に倍近くに膨れ上がり、主催者の幹事さん達は思いがけなく一挙に増えた人数分の食事の手当に大童で、大そうお気の毒に思ったことを思い出す。
藤田西湖の話の内容だが、さすがに六十年近くも昔のことで、話の順序や細かいことは忘れてしまったが、断片的ではあるがかなりのことが記憶に残っているのは、やはりその印象が余程強烈だったからだろう。
初めに、自分が甲賀流十四世の藤田西湖で、本名を勇治と云い、西湖は絵を習った時に付けた号で、忍術の稽古は甲賀流十三世の祖父新之助から受けたと話し始めた。
父親は警視庁の巡査で藤田森之助といったが、忍者ではなかった。
しかし、捕縄術の名人だったという。
西湖の家は代々、幕府の隠密の家だった。
徳川家康が織田信長の招きに応じて天正十年(1582)泉州堺に遊覧の途上、本能寺の変が起こった。
これを茶屋四郎次郎が早馬で家康の許に知らせてきた。
家康はそれを聞いて本能寺に向かおうとしたが、この兵乱で野武士が蜂起し、孤立無援の窮地に陥った。その時、本多忠勝が、ここは何はともあれ、少しでも早く三河へ帰るべき、と進言した。家康もその意見を入れ三河へ戻ることにしたが、その途中も決して安全とは云い難いので、服部半蔵、拓殖三之丞、穴山梅雪などの斡旋で伊賀、甲賀の忍者二百名を招いて警固を頼み、鹿伏兎峠(かぶととうげ)を越え、伊勢の白子浜から海路、三河に戻ることが出来た。
その縁故から、後の天正十八年(1590)家康は江戸に居城を構えるに及び、服部半蔵以下二百名の忍者を江戸に呼び、召抱えて隠密とした。四谷の伊賀町は伊賀者のいた所、神田の甲賀町は甲賀者のいた所、又、下輩の忍者は麻布の笄町(こうがいちょう)辺に橋を隔てて伊賀者と甲賀者を住まわせた。即ち、甲賀伊賀町というのが笄町になったという。
以上は、西湖が書いた『甲賀流忍者一代記』という自伝の冒頭の部分を要約した。
A会での講演でも西湖は家の由緒について語っていたが、何しろ古い話なので固有名詞等は全く記憶がなく、西湖の本を参考にせざるを得なかった。
西湖の本は、二、三年前に古本市で見つけて買っておいたもので、この稿を書くに当たって初めて目を通したが、思い出すことも多かった。
記憶が定かでない場合も多々あるので、以下、西湖の本と睨み合わせて書いて行くことにする。
さて、西湖が自伝に書いている冒頭の部分は、考証的にいって疑問点が多いので、一応はっきりさせておく。
西湖の家は甲賀流であるから、甲賀衆である。三田村鳶魚は、甲賀者、甲賀衆といった人達が隠密をつとめたことは知らない、といっている。
甲賀衆というのは同心で御留守居付の者だったと聞いている。隠密などという役をつとめることは決してない。甲賀組というと忍術の本場が江州の甲賀だから、そんなことを引っかけたのだろう、というのである。
甲賀者というのは、関ヶ原の戦で功があった山岡備前守景友に家康が討死した甲賀者の子孫、与力十人、同心百人と九千石の地を与え、その内四千石を以て士卒の給分に当てたのが今の甲賀組である、と『徳川実紀』にあるという。
又、神田の甲賀町について、駿河台に甲賀町という町があり、これは甲賀衆が住んでいたから付いた町名というが、甲賀衆が住んでいたというのは疑問である。甲賀町には火消屋敷と旗本衆の邸宅だけで、甲賀衆が火消屋敷につとめていたことはあるが、甲賀衆の組屋敷はなかった。組屋敷を拝領するのは、その組の者だけで、甲賀衆ならば同心である。
更に、本能寺の変の後、堺から伊賀、甲賀の忍者二百名に守護されて、家康は三河に無事戻ることが出来たとあるが、家康を警固したのは服部半蔵率いる伊賀者二百名で、甲賀者は入っていない。
服部半蔵には、姉川、三方ヶ原の合戦の時にも戦功があったというが、その後、江戸に招かれて三千石を与えられた。
半蔵が守った門が半蔵門ということはよく知られている。
こうしてみると、甲賀者が隠密をつとめていたという事実はなさそうで又、伊賀者についても鳶魚は、江戸に招かれた伊賀者は同心として、いろいろな役目についたが、間諜として働いたのは江戸の初期、といっている。『旧事諮問録』に、諸藩の支配地に姿を変えて入り込んだりする隠し目付は何ですか、という問に対して、御小人目付です、といっている。又、将軍の隠し目付の御庭番は、という問には、あれは目付の支配ではありません、と答えている。
御庭番というのは将軍直属で、八代将軍吉宗の創始という。
従って、隠密役と云えば、御小人目付か、御庭番のどちらか、ということになるが、西湖の書いたものからはわからない。
西湖は歴史家でも考証家でもないのだから、家の来歴や由緒など、云い伝えをかじっているだけで曖昧なのは仕方がないのかもしれないが、あまり話が違うので、ちょっと出端を挫かれた感がある。
しかし、A会での西湖のパフォーマンスはなかなか刺戟的で、ユニークなものだった
正忍記の著者の墓石が見つかる。
日本三大忍術伝書の一つ『正忍記(しょうにんき)』を記した紀州藩の軍学者・名取三十郎正澄(なとりさんじゅうろうまさずみ)の墓石が、和歌山市吹上の恵運寺(えいうんじ)で見つかった。長年、境内の供養塔の中で眠っていたもので、5日には名取家縁者ら立ち合いのもと、案内板の除幕式と墓石の開眼法要が行われた。山本寿法副住職(46)は「このような偉人がいたことを、和歌山や日本の皆さんに知っていただきたい。観光や活性化にも生かせられれば」と願っている。
名取三十郎正澄(生年不詳―宝永5年=1708没)は、甲州武田家に仕えた祖父、名取與市之丞正俊を流祖とする軍学流派「名取流」中興の祖。藩主徳川頼宣公の軍学指南役として仕えた。名取流は新楠流とも呼ばれ、明治維新まで伝えられた。
『正忍記』(国会図書館所蔵)は『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』『忍秘伝』に並ぶ三大忍術伝書として名高く、日本でも多くの研究書が出されている他、英語やドイツ語、フランス語などに翻訳され、世界中で愛読されているという。
名取三十郎自身が忍びの任務を負っていたのか、流派伝承の師範として教えていただけなのかは不明だが、軍学者が忍びの術を克明に記しているのは興味深いという。
【一本の電話きっかけに】
全ての始まりは昨年4月の、一本の電話。同寺のブログに書かれた「名取家」の文字を目にした女性から「そちらに名取三十郎正澄が眠っていないか」との問い合わせがあった。 女性は『正忍記』の英語著書があるアントニー・クミンズ氏(34)の翻訳者で、山本副住職は、この時初めて名取三十郎の名を知ったという。
さっそく過去張を調べてみると、名取家の記録の中に一致するものがあり、その後、同寺を訪れたアントニー氏にも詳細を説明。さらに供養塔の中を調べていたところ、墓石と位牌が見つかった。位牌は劣化が激しかったが、墓石は、はっきりと文字が読み取れる状態だった。
同寺では約50年前に区画整理に伴う墓石移転などもあり、また、風雨にさらされる供養塔の外ではなく、中に祭られ今日まで残ったのは奇跡的だという。これには山本副住職も「偶然なのか、それとも300年後に見つけてもらえるよう、忍術をかけたのかもしれませんね」と笑顔。
名取家と同寺とのつながりについて、同寺は武田氏の軍師だったとされる山本勘助の流れをくむことから、菩提寺になったのではないかとしている。
アントニー氏は「調べれば調べるほど、教養、人格ともに優れた人物。このお寺が、忍者の聖地のようになれば」と期待し、山本副住職は「正忍記には、現代にも十分生かせる生活の知恵が詰まっています。近く『読む会』を立ち上げますので、興味のある方はぜひご参加ください」と呼び掛けている。
問い合わせは同寺(℡073・424・7633)。
名取三十郎正澄(生年不詳―宝永5年=1708没)は、甲州武田家に仕えた祖父、名取與市之丞正俊を流祖とする軍学流派「名取流」中興の祖。藩主徳川頼宣公の軍学指南役として仕えた。名取流は新楠流とも呼ばれ、明治維新まで伝えられた。
『正忍記』(国会図書館所蔵)は『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』『忍秘伝』に並ぶ三大忍術伝書として名高く、日本でも多くの研究書が出されている他、英語やドイツ語、フランス語などに翻訳され、世界中で愛読されているという。
名取三十郎自身が忍びの任務を負っていたのか、流派伝承の師範として教えていただけなのかは不明だが、軍学者が忍びの術を克明に記しているのは興味深いという。
【一本の電話きっかけに】
全ての始まりは昨年4月の、一本の電話。同寺のブログに書かれた「名取家」の文字を目にした女性から「そちらに名取三十郎正澄が眠っていないか」との問い合わせがあった。 女性は『正忍記』の英語著書があるアントニー・クミンズ氏(34)の翻訳者で、山本副住職は、この時初めて名取三十郎の名を知ったという。
さっそく過去張を調べてみると、名取家の記録の中に一致するものがあり、その後、同寺を訪れたアントニー氏にも詳細を説明。さらに供養塔の中を調べていたところ、墓石と位牌が見つかった。位牌は劣化が激しかったが、墓石は、はっきりと文字が読み取れる状態だった。
同寺では約50年前に区画整理に伴う墓石移転などもあり、また、風雨にさらされる供養塔の外ではなく、中に祭られ今日まで残ったのは奇跡的だという。これには山本副住職も「偶然なのか、それとも300年後に見つけてもらえるよう、忍術をかけたのかもしれませんね」と笑顔。
名取家と同寺とのつながりについて、同寺は武田氏の軍師だったとされる山本勘助の流れをくむことから、菩提寺になったのではないかとしている。
アントニー氏は「調べれば調べるほど、教養、人格ともに優れた人物。このお寺が、忍者の聖地のようになれば」と期待し、山本副住職は「正忍記には、現代にも十分生かせる生活の知恵が詰まっています。近く『読む会』を立ち上げますので、興味のある方はぜひご参加ください」と呼び掛けている。
問い合わせは同寺(℡073・424・7633)。
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